平安時代とは、延暦13年(794年)から文治元年(1185年)までの392年間を指す時代区分です。
この時代で思い浮かぶものはと聞かれたら、まっさきに藤原氏をあげる方が多いのではないかと思います。確かに平安時代は藤原氏全盛の時代でした。ただ400年も続いた時代はそう単純ではありません。
では、平安時代がいつどのようにはじまり、いつどのようにして終わったのか、そしてどのような時代であったのかについて簡単に解説します。
平安時代のはじまりと終わり
いつはじまった?
平安時代は時の天皇である桓武天皇(かんむてんのう)が、平安京(現在の京都府京都市)に都を遷(うつ)した時をもってはじまります。
延暦13年10月22日(794年11月22日)、いまから約1200年も前のことです。
それ以前の時代は奈良時代と呼ばれます。こういうと多くの人は奈良の平城京から平安京へ都を遷したのだなと思うかもしれませんが、実は平城京と平安京の間には都をひとつ挟んでいます。
あまり知られていませんが平安京に遷る以前は平安京から10Kmほどの場所にあった長岡京(京都府向日町市/長岡京市)を都としていました。
ただし、長岡京が都となっていたのは延暦3年(784年)から平安京に遷るまでのたった10年ほど。期間があまりに短く、天皇も桓武天皇1代限りということで長岡時代とはならなかったのでしょう。
人によっては長岡京遷都(784年)を平安時代の始まりとする場合もあるようですが、ほとんどの場合は794年の平安京遷都を平安時代の始まりとしています。
いつ終わった?
次に平安時代の終わりですが、現在においては文治元年(1185年)とされています。
「現在においては…」というとなんかスッキリとしませんが、これは意見が分かれているということです。
「平安時代の終わり」とは、次代である鎌倉時代がはじまるところと言い換えることができます。ただ、この「鎌倉時代のはじまり」にいくつかの説があって揺れているのです。
いわれている説にはだいたい次のようのものがあります。
【2】1185年 守護・地頭の設置(源頼朝)
【3】1192年 源頼朝の征夷大将軍就任(源頼朝)
【4】1221年 「承久の乱」後の支配権獲得(北条義時・北条政子)
これらのどこを「鎌倉時代のはじまり」とするのかによって「平安時代の終わり」も変化するのです。
以前であれば
いいくに作ろう鎌倉幕府
などといわれ、【3】の1192年の頼朝の将軍就任を鎌倉幕府のはじまりとしていました。ただ、最近では守護・地頭を設置しているのだから幕府の支配はこの時点で始まっているとみなされて、【2】の1185年を鎌倉幕府のはじまりとするようになったようです。
平安時代とはどんな時代?
では、平安時代とはどんな時代でしょうか。
とはいってもおおよそ400年にも渡った長い時代ですので、最初から最後までこうでしたと言いきることはなかなかできません。
平安時代を語る場合には、その政治体制からだいたい前期、中期、後期の3つの時期に分類されることが多いです。
平安時代前期
前期と呼ばれる時代は、天皇家が直接統治をおこなういわゆる親政の時代です。
天皇を中心に皇族や皇族出身の貴族が政治の重要なポストを占め、天皇家がしっかりと権力を握っていました。この状態は遷都を行った桓武天皇の時代から、おおむね60年ほど続きます。
平安時代中期
そして続く中期になって政治権力を握ったのが、藤原氏です。
藤原氏は天皇家に一族の娘を嫁がせ、生まれた皇子を次々に天皇に即位させます。そして自身は摂政や関白に就き天皇の外戚として権力を振るいました。
これは摂関政治と呼ばれ、おおよそ200年という長い期間続きます。
かの藤原道長が
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」
と藤原氏の栄華を歌に詠んだのもこの時期にあたります。
平安時代後期
後期になると藤原氏は次第に力を弱めます。そして再び天皇家が実権を持ち始めました。
藤原氏の影響力が低かった白河天皇は自身の皇子である堀河天皇に譲位し、上皇の立場から政治を行い始めます。この政治体制は院政と呼ばれ、このあとも鳥羽天皇、後白河天皇に引き継がれ約100年に渡って続きました。
そして平安時代末期になると、平清盛や源頼朝などの武士が台頭し、頼朝が鎌倉に幕府を開いて長い長い平安時代がようやく終わりを迎えるのです。
まとめ
平安時代のもとになっている平安京とは、「平(たい)らかで安(やす)らかな京(みやこ)」の思いが込められているといいます。
実際はどうだったかというと、皇族は皇位を巡って皇族同士で争いが行われていました。藤原氏も他氏族を追い落としたり、一族間で争ったりしていました。また、地方は地方であちこちで乱が起こるなどしています。
一言でいうと平安時代とは、平安という言葉とは全くかけ離れていた時代だったといえるでしょう。だからこそ逆にそうした願いが込められたのかもしれませんね。