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【豊臣秀吉天下統一までの道のり】本能寺の変からの流れを総まとめ

豊臣秀吉 歴史
豊臣秀吉
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天正10年6月
京都本能寺

天下を治めていた織田信長が家臣であった明智光秀の謀反によって突然この世を去ってしまいます。

しかし、「信長様のかたき討ちだー!」とばかりにやってきた、後の豊臣秀吉である羽柴秀吉によって今度は光秀が敗死。その後秀吉は天下を取って天下統一を果たすというのは誰もが知っているストーリーです。

ですが、秀吉がすんなり天下統一を果たしたかというとそうではありません。秀吉が天下統一を果たしたのは天正18年、「本能寺の変」が起こった天正10年から数えて、実に8年という相当な年月がかかっていることからも分かります。

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豊臣秀吉が天下統一を果たすまでの道のり

秀吉の兜
それでは秀吉が天下統一を果たすまでどのような流れを辿ったのか、大まかな出来事にしぼって簡単に説明しましょう。

本能寺の変 天正10年6月2日(1582年6月21日)

明智光秀によって織田信長・信忠親子が敗死します。これにより織田政権のトップが不在となり、この後の秀吉の人生が大きく変わりました。この事件がなければ、秀吉の天下がなかったのは間違いないでしょう。

事件当日、秀吉は200キロも離れた備中高松城で毛利氏と対陣中、ただ事件の報せは次の日の夜には届いたといわれます。

この報せを聞いた秀吉側近の黒田官兵衛は

「今こそ天下を獲るときですぞ!」ニヤリ

と秀吉に進言したなんて話もあります。

本能寺跡

山崎の戦い 天正10年6月13日(1582年7月2日)

報せを聞いた秀吉の決断は早く、毛利氏とさっさと講和を果たして光秀のもとへと急行します。いわゆる中国大返しです。これによってわずか10日ばかりで京都の西にある山崎において光秀と戦いました。

このとき秀吉は周辺領主に「信長様は生きている!」と嘘の手紙をばらまいて、多くの味方を付けることに成功したといいます。一方の光秀は謀反という暴挙にまったく仲間が得られず、数で圧倒されてあっという間に蹴散らされました。
山崎合戦之地

清須会議 天正10年6月27日(1582年7月16日)

信長・信忠がいなくなった後の織田家をどうしていくか、柴田勝家や丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興ら織田家重臣が集まって話し合った会議です。

その結果、秀吉は「山崎の戦い」の戦功によって丹波、山城、河内など、大幅な加増を受けて一気に家臣団トップへと躍り出ました。

また、織田家の家督は信忠の子の三法師とすることがこの会議で決まっています。よく秀吉が三法師を抱きかかえて家臣団の前に現れるといった話がありますが、これは後の創作です。

信長の葬儀 天正10年10月15日(1582年11月10日)

秀吉は養子となった信長の四男・秀勝を喪主として、信長の葬儀を執り行います。これによって織田家の実力者は秀吉であることを、織田家中と世間に向けてアピールしたのです。

しかし、織田家のトップだった柴田勝家は面白くありません。当然ながら勝家は欠席、この行動によって秀吉と勝家の関係は決定的となってしまいました。

賤ヶ岳の戦い 天正11年4月(1583年6月)

勝家と秀吉がついに琵琶湖北側の賤ヶ岳(しずがたけ)付近において激突します。この戦いで勝家は敗走、本拠の北ノ庄に戻り正妻・お市の方とともに自害しました。

この戦いで反秀吉勢力は一掃されます。旧織田家中は秀吉のもとひとつにまとまり、実質的な天下人となったのです。

この時点で、すでに秀吉の勢力は他者を圧倒しており、もはや秀吉に単独で対抗しうる勢力はありません。これ以降の戦いは数で圧倒する戦いとなるので、これこそがまさに秀吉にとっての「天下分け目の戦い」であったといえるでしょう。

小牧・長久手の戦い 天正12年3月~11月(1584年4月~12月)

「秀吉の下風になど立てるか!」との思いでしょう、信長の子で織田家当主となっていた織田信雄と徳川家康が連合を組んで秀吉と戦いました。

しかし、力の差は歴然で最終的に織田領の割譲と、家康の子(後の結城秀康)を人質に入れることで講和しています。

紀州征伐 天正13年3月~4月(1585年4月~5月)

紀州の雑賀衆や根来寺など宗教勢力との戦闘です。一説には10万ともいわれる大軍を動員し、圧倒的な力で制圧しました。

四国征伐 天正13年6月~7月(1585年7月~8月)

四国の覇者となった長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)との戦闘です。秀吉の弟・秀長を大将にこちらも10万ほどの兵が動員され、そんなものに元親が対抗できるはずもなく、あえなく降伏します。

その後、土佐国以外の領地はすべて取り上げられました。

関白就任 天正13年7月11日(1585年8月6日)

秀吉は自身の権威を上げるため、朝廷の実質的トップである関白の就任を画策します。

しかし、関白職は通常、藤原氏の中でも五摂家と呼ばれるごく限られた家のものでなければ就任することができません。そこで、秀吉は元関白の近衛前久の猶子となることで、関白就任を実現させています。

ちなみに、秀吉が将軍になるために足利義昭に養子にするように頼んで断られたという話がよく聞かれますが、これは事実ではないといわれています。

九州征伐 天正14年7月~15年4月(1586年8月~1587年5月)

薩摩の島津氏との戦闘で、「島津征伐」とも呼ばれます。この頃の島津氏は、龍造寺氏や大友氏など有力大名を下し、九州全域制覇は目前といった状況にありました。

秀吉は島津氏に対して停戦命令を出しますが、島津氏がこれを無視したため九州征伐を決断します。

20万という大兵力を前に、武勇名高いさすがの島津氏も降伏。その結果、領国は薩摩と大隅、日向の一部とし、それ以外は秀吉配下の武将に戦いの恩賞として与えられました。

豊臣姓下賜 天正14年9月9日(1586年10月21日)

秀吉は新たな姓を望んで、正親町天皇(おおぎまちてんのう)から豊臣姓を賜りました。これによって、これまで関白職を独占していた藤原氏とは違う、新たな武家関白家が誕生します。

この後、これまでの征夷大将軍と同等の「武家の棟梁」としての意味合いで、豊臣家が関白職を継承していくこととなりました。ただし、豊臣政権は短命だったため、秀吉・秀次の2代で終わっています。

徳川家康が臣従 天正14年10月27日(1586年12月7日)

「小牧・長久手の戦い」以来、再三に渡る上洛要請をかわし続けた徳川家康が、大阪城にやってきて居並ぶ大名たちの前で秀吉に臣従を誓います。

このとき秀吉は、妹の朝日姫を家康の正室として家康のもとへと送り、さらには母の大政所まで人質に送るなどしており、家康にかなり気を使っているのがうかがえます。

家康しかみ像

太政大臣就任 天正14年12月25日(1587年2月2日)

後陽成天皇の即位にあわせて、秀吉が太政大臣に就任します。

武家の太政大臣就任は平安時代末期の平清盛、室町時代の足利義満に次ぐ3人目となり、秀吉はこの太政大臣を頂点とした政権システムを構想していたという話もあります。

聚楽第行幸 天正16年4月14日(1588年5月9日)

秀吉が後陽成天皇を自邸の聚楽第に招いて贅沢にもてなしました。

聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)とは、関白となった秀吉が執務を行うため京都に建てた屋敷です。自身の邸宅へ天皇を招くことで豊臣家の権威をより一層アピールし、天下の主であることを内外へ知らしめたといえます。

小田原征伐 天正18年2月~7月(1590年3月~8月)

関東の北条氏との戦闘で、北条征伐とも呼ばれます。

北条氏は表面上は豊臣政権に臣従の姿勢を見せてはいましたが、当主の北条氏政・氏直父子が上洛に応じていませんでした。さらに北条氏が真田領へ侵攻したことで、秀吉はとうとう小田原征伐を決断します。

およそ20万の兵が動員され、支城が次々と落とされていきました。北条氏の本拠である小田原城では大きな戦闘はありませんでしたが、北条氏は3ヶ月の籠城の末に開城、大名としての北条氏はここに滅亡しました。

奥州仕置 天正18年7月~8月(1590年8月~9月)

北条氏の降伏後に行われたのが、奥州の大名たちへの処分です。

秀吉は小田原征伐の際、奥州の大名たちに小田原参陣を促しました。そして、参陣しなかった大名は取り潰し、遅参した伊達政宗などは大幅な減封を受けるなど厳しい処分が下っています。

このとき、小田原に集まっていた兵の一部が北上、一部抵抗を受けながらも奥州の諸城を制圧し、ここにようやく秀吉の天下統一がなされたのです。

まとめ

大阪城
いかがだったでしょうか?

「本能寺の変」が起こって、後はトントン拍子で天下人!みたいな印象もありますが、結構濃密だったと思いませんか?

いや、むしろ働きすぎなくらいですよ!

戦国時代のクライマックスというと「本能寺の変」「関ケ原の戦い」「大坂の陣」といったところですからね。どの作品でもそのあたりを中心に描かれるのは仕方がないのでしょう。

その間の出来事はどうしても埋もれてしまって印象に残らないのかもしれませんね。

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