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室町幕府はどこにあった?場所と歴史をやさしく解説

室町幕府はどこ? 歴史
室町幕府はどこ?
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室町幕府があったのは京都!

聞かれてすぐに答えられる人はいったいどれだけいるでしょうか?

と、その前に幕府とは何かを説明しておきますと、Wikipediaには次のように書かれてあります。

「幕府は、日本において征夷大将軍を首長とする武家政権もしくはその政庁を指す語」

つまりは「政庁が置かれた場所」ということなのですが、知っての通り鎌倉幕府の政庁は鎌倉に、江戸幕府の政庁は江戸にそれぞれ置かれていました。これは幕府の置かれた場所から鎌倉幕府、江戸幕府と呼ばれるのですから当然といえば当然です。では室町幕府の政庁がどこにあったかというと、もちろん室町にありました。

ですが室町といってもどこか分かる人は少ないでしょう。
室町は今の京都市中心部、いわゆる平安京にありました。

ただ、この室町というのは他の幕府とは違い地名というよりも屋敷の名前です。当時将軍の暮らした御所のことを室町殿と呼び、ここから室町幕府と呼ばれるようになりました。

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室町幕府の場所

かつて室町殿と呼ばれた屋敷は今の京都市上京区(かみぎょうく)、市街地のやや北側にありました。屋敷の規模は

西は室町通りから東の烏丸通りまでの約120m
北は上立売通りから南の今出川通りまでの約300m

屋敷のあった場所を今の地図に重ねるとだいたいこんな感じです。

広さは東京ドームの約3/4といったところで、屋敷としてはかなり広かったことが分かります。周辺はどうかというと、すぐそばには地下鉄の今出川駅、東側には同志社大学。あとは宅地が広がる何の変哲もないよくある街の風景といったところで、その痕跡はほとんどありません。

ただ、そんななかでも今我々が室町殿を感じとることができるものがいくつかあります。

足利将軍室町第址碑

足利将軍室町第址碑

足利将軍室町第址碑

今出川通りと室町通りの角に「従是東北 足利将軍室町第址」と書かれた石碑があります。文字通り室町殿の南西角にあたる場所です。

ここにある室町第(むろまちだい・むろまちてい)とは室町殿の別の呼び名で、ほかに「花の御所」とも呼ばれました。

花の御所石敷き

室町殿石敷き遺構

室町殿石敷き遺構

同志社大学寒梅館の北西角に足を踏み入れると、何やら三角形のガラス張りの構造物が置かれています。これは発掘された室町殿の石敷きの展示施設で、室町殿の北西角付近にあたります。

大聖寺

大聖寺

大聖寺

かつての室町殿のちょうど真ん中のあたりに大聖寺(だいしょうじ)という特に目立つこともないお寺があります。光厳天皇(こうごんてんのう)の妃であった日野宣子という人物が開山した寺で、3代将軍足利義満の正室日野業子の叔母にあたる人です。

義満が彼女を邸内にあった岡松殿に招き入れ、彼女が没したあと寺としたのが始まりで現在もほぼ同じ場所に建っています。

かつて室町殿であった境内には「花の御所」碑が立てられています。

室町殿の歴史

室町通りの道路標識

室町通りの道路標識

室町幕府の語源ともなった室町殿ですが、実は最初から御所だったわけではありませんでした。幕府が開かれた当初はもう少し南にいった御池通り付近に御所(後述)があり、室町殿が御所となったのは3代将軍足利義満の時からです。

2代将軍足利義詮(よしあきら)が別邸としたのが始まりで、3代義満が拡張し整備したのち本邸としました。屋敷西側の室町小路(今の室町通り)に正門があったことから室町殿と呼ばれるようになり、のちに室町殿は将軍を指す言葉にも使われるようになりました。

ちなみに「花の御所」の呼び名は一時期崇光上皇(すこうじょうこう)が御所としていたことに由来します。

その後、使われなくなったり戦火で焼失したりなどもしましたが、規模を変えながらも再建を繰り返し200年近くも御所となりました。役目を終えたのは13代将軍足利義輝のときで、新たに二条御所を建てた際に室町殿は放棄され以降この場所に再建されることはありませんでした。

そのほかの将軍御所

知っての通り室町幕府は足利尊氏が1336年に開いた武家政権です。以来1573年まで約240年も続きました。これだけ長く続けばそれはもういろいろあります。

というか前半は南北朝動乱でゴタゴタ、後半は戦国時代でゴタゴタと混乱していた時期の方が長いくらいでした。では京都でゴタゴタがあったときにはどうしたのか。

答えはサッサとトンズラ。将軍はたびたび逃亡生活を送っていました。

そういうわけなので将軍御所は実はあちこちあったりするのですが、ここではそういった逃亡先を抜きにした将軍御所をご紹介しましょう。

二条万里小路邸・三条坊門邸

足利尊氏邸・等持寺跡碑

足利尊氏邸・等持寺跡碑

初代足利尊氏の屋敷。

鎌倉幕府滅亡後の「建武の新政」時代から使用され、将軍就任後も拠点とした屋敷です。すぐ南側の三条坊門邸には弟の足利直義が住んでおり、実質幕府は直義が運営していましたからまさに幕府の中心地ともいえる場所でした。

直義失脚後は義詮が三条坊門邸に移って、3代将軍義満が室町第に移るまで拠点となりました。

二条御所

斯波氏武衛陣 足利義輝邸遺址碑

斯波氏武衛陣 足利義輝邸遺址碑

13代将軍足利義輝の屋敷。

幕府三管領のひとつ斯波氏の屋敷跡に建てられた屋敷で、斯波氏の役職に因んで武衛陣(ぶえいじん)と呼ばれました。現在も町名(武衛陣町)として残っています。

ですが義輝は当時力を持っていた三好氏と対立したため、襲撃を受けこの屋敷で亡くなりました。これは「永禄の変」と呼ばれます。

そんなわけで、使用されたのはごく短い期間でした。

普門寺

普門寺

普門寺(大阪府高槻市)

14代将軍足利義栄(よしひで)の屋敷。

義栄は「永禄の変」で排除された義輝の代わりとして三好氏に担がれた将軍です。ただ京に入ることはなく摂津の国・普門寺(ふもんじ)を御所としました。寺とはいっても土塁や堀が城郭のように整備され普門寺城とも呼ばれていたようです。

ただ将軍宣下を受けた直後に上洛してきた織田信長に蹴散らされてしまったので、こちらもごく短期間の使用にとどまっています。

二条城

二条城跡碑

二条城跡碑

15代将軍足利義昭の屋敷。

義昭は義輝の弟で織田信長の協力によって将軍となりました。就任当初は六条にある本国寺(今の本圀寺)を仮の御所としていましたが、三好氏の襲撃を受けるなどしたため、信長がしっかり守れる御所をということで作られたのが二条城です。

ですが義昭は信長と敵対したため信長に京を追い出されてしまいます。これによって室町幕府は滅亡、二条城も廃城となってしまいました。

まとめ

  • 室町幕府(将軍御所)があった場所は京都市上京区
  • 将軍御所は室町殿(室町第・花の御所)と呼ばれ、室町幕府の語源となった
  • 使われたのは3代義満から13代義輝の時代までのおおよそ200年

いま現在、将軍御所だった室町殿は住宅街となっていてその痕跡はほとんどありません。かつて武家政権のトップとして全国の頂点に君臨したであろう屋敷もいまや土の下に消えてしまいました。

ただ大阪城や姫路城のように威風堂々たる姿も魅力ではありますが、逆に何も残っていないというところにもロマンを感じてしまいますね。

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