天正10年6月2日早朝、京都本能寺において「本能寺の変」が勃発。
この日、天下統一に最も近かった有力大名・織田信長が、家臣であった明智光秀の襲撃を受けて命を落としました。この事件をきっかけに、歴史は大きな転換点を迎えることとなります。間違いなく史上最大のクーデターのひとつといえるでしょう。
ただ、この事件のあと光秀はわずか10日ばかりという短い期間でこの世を去ってしまいます。このことで、光秀が謀反を起こした理由については、大きな謎として残ってしまいました。
この劇的な出来事は、多くの物語や研究者たちにこの後数百年に渡って取り上げられるようになります。光秀はなぜ信長を裏切ったのか、黒幕はいたのか、それは一体誰なのか、などについてさまざまな説が唱えられ、もっともらしい説からとんでも説まで今では50以上もあるそうです。
ではその理由とは何だったのか?
結論からいえば不明です。ただ、最近よくいわれている有力な説のひとつとして、四国征伐阻止説があります。
このあと、ほかの説なども合わせて、もう少し詳しく解説しましょう。
なぜ光秀は裏切ったのか
光秀が事件を起こした理由として、いま有力と思われる説、よくいわれている説をご紹介しましょう。
最近のトレンド!四国征伐阻止説
最近、四国の覇者となった長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)と光秀の家臣・斎藤利三(さいとう・としみつ)の間でやり取りされた書状が見つかりました。これによって織田との関係や、前後の状況などに光が当たり、そこから注目を浴びるようになった説です。
その話とは大体こうです。
織田信長の機内への進出以降、信長は四方に敵を抱えることとなります。このうちのひとつが四国を本拠とする三好勢です。
そして、この三好に対抗するため信長が手を結んだのが長宗我部元親でした。当初、信長は元親に対して「四国は切り取り次第」との許しを与えていました。ところが、情勢が落ち着いてくると、「やっぱり領地はやらん」と信長が言い出したことで、関係が悪化します。
このとき両者の間に入って奔走していたのが光秀や利三で、面目を失ったのが謀反を起こした理由とされています。
実際、「本能寺の変」が起こったのは四国征伐軍が四国に渡ろうとするまさに当日であり、それなりの信ぴょう性はありそうです。
よくいわれる怨恨・私怨説
要するに「コノヤロー!」という怒りに任せてやっちゃったという説です。これまで広くいわれていた説で、ドラマや小説などでも数多く採用され広く浸透しているので、今でも一定の支持を得ています。
そのきっかけになったといわれている信長と光秀のエピソードがいくつかあるので紹介しましょう。
- 甲州征伐を終えた後に光秀が「苦労した甲斐があった」といって、それを聞いた信長は「お前が何をしたというのか!」と激怒、光秀の頭を打ち付けた。
- 同盟者の徳川家康を接待する饗応役を仰せつかっていたのに突然解任されたため、腹立ちまぎれに肴や器を安土の町の堀に投げ棄てた。
- 光秀の領地である丹波と近江を突然召上げられ、毛利の領地である山陰を与えるといわれた。
- 怒った信長に頭をはたかれてカツラがとれ、みんなの前で大恥をかいた。
割と有名なエピソードなのでみなさんもご存じだと思います。今なら完全なブラック認定で間違いなくアウトでしょうが、当時はこうゆうこともあったのかもしれません。
ただ、これらのエピソードは江戸時代頃に書かれたものとされていて、どれも信ぴょう性は薄いとされています。
ほかにもあるこんな説
四国征伐阻止説、怨恨説のほかにもたくさんの説がありますが、よくいわれている説をご紹介します。
野望説
「いま信長を討ったら天下人になれるかも…」と単純に光秀が天下人になりたくてやったという説です。
不安説
それまで信長に尽くしてきた家老たちが、いとも簡単に織田家を追い出される姿を見た光秀が、「もしかして俺もやばいかも…」と不安に駆られてやったという説です。
神格化阻止説
信長が「おれが神だ!おれをあが(崇)めろ!」などといい出したので、「コイツほっとくとやばいかも…」と光秀が思ってやったという説です。
暴君討伐説
比叡山焼き討ちしたり、石山合戦などで女子供もお構いなしに殺していく姿を見て、「コイツに天下を取らせてはいけない」と感じてやったという説です。
朝廷守護説
信長が天皇を排除しようと考えていたとされ、光秀が「そんなことは許されない!」という思いからやったという説です。
黒幕説 黒幕は誰なのか?
ここまでよくいわれている説をいくつかご紹介しましたが、どれも光秀が自発的に事件を起こしたことが前提となっています。
ここでもうひとつ、よくいわれている説の中に黒幕説があります。これは、光秀はあくまでその人物の意を受けて実行しただけで、主犯ではない(あるいは共犯)とする説です。
こちらもこれまでの説同様、確たる証拠はありません。関係者ほぼすべて容疑者といった状態ですが、なかでも黒幕としてよくあげられている人物をご紹介しましょう。
羽柴秀吉
この事件ののち、光秀を討って天下人にまで上り詰めた人物です。事件によって最大の利益を得たものとして黒幕の筆頭としてよくあげられています。
特に事件直後、対陣していた毛利氏と手打ちしてすぐに光秀討伐に向かったことが知られています。このあまりに早過ぎる対応が、事件が起こることを事前に知っていたのではないかとの疑惑を深める根拠となっているのでしょう。
徳川家康
我が子・信康が信長によって切腹に追い込まれて恨みに思っていた、あるいは今後の徳川の扱いなどについて不安に思っていたとする説です。
ただ、事件発生時にはわずかな供のみで三河より遠く離れた堺におり、その後の伊賀越えで命を落としかけていることなどから、可能性はほとんどないでしょう。
足利義昭
以前、信長と敵対して京を追放された室町幕府の最後の将軍です。信長に対する恨みもさぞ深かったと思われ、追放後は鞆幕府を作って信長に対抗しています。
光秀がもと義昭の家臣だったことも、この説の根拠のひとつとなっています。
朝廷
正倉院に収蔵されている宝物である蘭奢待(らんじゃたい)を切り取ったり、京都で馬揃えをして示威行動をしてみたりといった、要するに信長の行動が目に余ったのでといった話です。
それと、事件の起こる少し前、信長を朝廷より太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任官するという話が持ち上がります。ただ、どちらサイドから持ち上がった話なのか、回答はどうだったのかなど謎のままです。
これは三職推任問題と呼ばれており、この出来事があった直後、「本能寺の変」が起こって信長が亡くなりました。もしかすると、この問題が引き金になったのではないかともいわれています。
まとめ
「本能寺の変」は日本人であれば、だれでも知っている大事件です。
ここまで人々を惹きつける要因とは何なのでしょうか?
最高の実力者が暗殺されたこと、遺体が発見されなかったこと、謀反を起こした光秀があっさりとやられてしまったこと、政権が移ってしまったことなどいろいろとあると思います。
しかし、なかでも最大の要因となっているのは、謀反を起こした理由が不明のままということではないでしょうか。
きっとこの先、どのような新資料が見つかったとしても、決着がつくことはないでしょう。もしかすると100年後の世界でも「本能寺の変」特集なんてのをやっているのかもしれませんね。
「本能寺の変」について興味のある方はこちらの本もどうぞ。