歴史 | 解説部! https://kaisetsu.info 世の中のなぜ?をわかりやすく簡単に Thu, 12 Oct 2023 04:57:15 +0000 ja hourly 1 https://kaisetsu.info/wp-content/uploads/2020/12/cropped-icon-32x32.png 歴史 | 解説部! https://kaisetsu.info 32 32 186733175 室町幕府はどこにあった?場所と歴史をやさしく解説 https://kaisetsu.info/328/ Tue, 15 Nov 2022 04:04:43 +0000 https://kaisetsu.info/?p=328 室町幕府があったのは京都!

聞かれてすぐに答えられる人はいったいどれだけいるでしょうか?

と、その前に幕府とは何かを説明しておきますと、Wikipediaには次のように書かれてあります。

「幕府は、日本において征夷大将軍を首長とする武家政権もしくはその政庁を指す語」

つまりは「政庁が置かれた場所」ということなのですが、知っての通り鎌倉幕府の政庁は鎌倉に、江戸幕府の政庁は江戸にそれぞれ置かれていました。これは幕府の置かれた場所から鎌倉幕府、江戸幕府と呼ばれるのですから当然といえば当然です。では室町幕府の政庁がどこにあったかというと、もちろん室町にありました。

ですが室町といってもどこか分かる人は少ないでしょう。
室町は今の京都市中心部、いわゆる平安京にありました。

ただ、この室町というのは他の幕府とは違い地名というよりも屋敷の名前です。当時将軍の暮らした御所のことを室町殿と呼び、ここから室町幕府と呼ばれるようになりました。

室町幕府の場所

かつて室町殿と呼ばれた屋敷は今の京都市上京区(かみぎょうく)、市街地のやや北側にありました。屋敷の規模は

西は室町通りから東の烏丸通りまでの約120m
北は上立売通りから南の今出川通りまでの約300m

屋敷のあった場所を今の地図に重ねるとだいたいこんな感じです。

広さは東京ドームの約3/4といったところで、屋敷としてはかなり広かったことが分かります。周辺はどうかというと、すぐそばには地下鉄の今出川駅、東側には同志社大学。あとは宅地が広がる何の変哲もないよくある街の風景といったところで、その痕跡はほとんどありません。

ただ、そんななかでも今我々が室町殿を感じとることができるものがいくつかあります。

足利将軍室町第址碑

足利将軍室町第址碑

足利将軍室町第址碑

今出川通りと室町通りの角に「従是東北 足利将軍室町第址」と書かれた石碑があります。文字通り室町殿の南西角にあたる場所です。

ここにある室町第(むろまちだい・むろまちてい)とは室町殿の別の呼び名で、ほかに「花の御所」とも呼ばれました。

花の御所石敷き

室町殿石敷き遺構

室町殿石敷き遺構

同志社大学寒梅館の北西角に足を踏み入れると、何やら三角形のガラス張りの構造物が置かれています。これは発掘された室町殿の石敷きの展示施設で、室町殿の北西角付近にあたります。

大聖寺

大聖寺

大聖寺

かつての室町殿のちょうど真ん中のあたりに大聖寺(だいしょうじ)という特に目立つこともないお寺があります。光厳天皇(こうごんてんのう)の妃であった日野宣子という人物が開山した寺で、3代将軍足利義満の正室日野業子の叔母にあたる人です。

義満が彼女を邸内にあった岡松殿に招き入れ、彼女が没したあと寺としたのが始まりで現在もほぼ同じ場所に建っています。

かつて室町殿であった境内には「花の御所」碑が立てられています。

室町殿の歴史

室町通りの道路標識

室町通りの道路標識

室町幕府の語源ともなった室町殿ですが、実は最初から御所だったわけではありませんでした。幕府が開かれた当初はもう少し南にいった御池通り付近に御所(後述)があり、室町殿が御所となったのは3代将軍足利義満の時からです。

2代将軍足利義詮(よしあきら)が別邸としたのが始まりで、3代義満が拡張し整備したのち本邸としました。屋敷西側の室町小路(今の室町通り)に正門があったことから室町殿と呼ばれるようになり、のちに室町殿は将軍を指す言葉にも使われるようになりました。

ちなみに「花の御所」の呼び名は一時期崇光上皇(すこうじょうこう)が御所としていたことに由来します。

その後、使われなくなったり戦火で焼失したりなどもしましたが、規模を変えながらも再建を繰り返し200年近くも御所となりました。役目を終えたのは13代将軍足利義輝のときで、新たに二条御所を建てた際に室町殿は放棄され以降この場所に再建されることはありませんでした。

そのほかの将軍御所

知っての通り室町幕府は足利尊氏が1336年に開いた武家政権です。以来1573年まで約240年も続きました。これだけ長く続けばそれはもういろいろあります。

というか前半は南北朝動乱でゴタゴタ、後半は戦国時代でゴタゴタと混乱していた時期の方が長いくらいでした。では京都でゴタゴタがあったときにはどうしたのか。

答えはサッサとトンズラ。将軍はたびたび逃亡生活を送っていました。

そういうわけなので将軍御所は実はあちこちあったりするのですが、ここではそういった逃亡先を抜きにした将軍御所をご紹介しましょう。

二条万里小路邸・三条坊門邸

足利尊氏邸・等持寺跡碑

足利尊氏邸・等持寺跡碑

初代足利尊氏の屋敷。

鎌倉幕府滅亡後の「建武の新政」時代から使用され、将軍就任後も拠点とした屋敷です。すぐ南側の三条坊門邸には弟の足利直義が住んでおり、実質幕府は直義が運営していましたからまさに幕府の中心地ともいえる場所でした。

直義失脚後は義詮が三条坊門邸に移って、3代将軍義満が室町第に移るまで拠点となりました。

二条御所

斯波氏武衛陣 足利義輝邸遺址碑

斯波氏武衛陣 足利義輝邸遺址碑

13代将軍足利義輝の屋敷。

幕府三管領のひとつ斯波氏の屋敷跡に建てられた屋敷で、斯波氏の役職に因んで武衛陣(ぶえいじん)と呼ばれました。現在も町名(武衛陣町)として残っています。

ですが義輝は当時力を持っていた三好氏と対立したため、襲撃を受けこの屋敷で亡くなりました。これは「永禄の変」と呼ばれます。

そんなわけで、使用されたのはごく短い期間でした。

普門寺

普門寺

普門寺(大阪府高槻市)

14代将軍足利義栄(よしひで)の屋敷。

義栄は「永禄の変」で排除された義輝の代わりとして三好氏に担がれた将軍です。ただ京に入ることはなく摂津の国・普門寺(ふもんじ)を御所としました。寺とはいっても土塁や堀が城郭のように整備され普門寺城とも呼ばれていたようです。

ただ将軍宣下を受けた直後に上洛してきた織田信長に蹴散らされてしまったので、こちらもごく短期間の使用にとどまっています。

二条城

二条城跡碑

二条城跡碑

15代将軍足利義昭の屋敷。

義昭は義輝の弟で織田信長の協力によって将軍となりました。就任当初は六条にある本国寺(今の本圀寺)を仮の御所としていましたが、三好氏の襲撃を受けるなどしたため、信長がしっかり守れる御所をということで作られたのが二条城です。

ですが義昭は信長と敵対したため信長に京を追い出されてしまいます。これによって室町幕府は滅亡、二条城も廃城となってしまいました。

まとめ

  • 室町幕府(将軍御所)があった場所は京都市上京区
  • 将軍御所は室町殿(室町第・花の御所)と呼ばれ、室町幕府の語源となった
  • 使われたのは3代義満から13代義輝の時代までのおおよそ200年

いま現在、将軍御所だった室町殿は住宅街となっていてその痕跡はほとんどありません。かつて武家政権のトップとして全国の頂点に君臨したであろう屋敷もいまや土の下に消えてしまいました。

ただ大阪城や姫路城のように威風堂々たる姿も魅力ではありますが、逆に何も残っていないというところにもロマンを感じてしまいますね。

]]>
328
【敵に塩を送る-語源】由来は上杉謙信とあの戦国武将!? https://kaisetsu.info/250/ Sun, 28 Feb 2021 06:16:46 +0000 https://kaisetsu.info/?p=250 「敵に塩を送る」

このことばを知っている人は多いでしょう。

「そんな、敵に塩を送るようなマネをしなくても…」
「敵に塩を送ることには賛成できない!」

こんな感じで使います。

普段、敵対関係にある相手が困った状況におちいったとき、その弱みにつけ込むのではなく、あえて手を差し伸べて助けることを意味することばです。

それがなぜ「敵に塩を送る」ということばになったのでしょうか。

それは、戦国時代に活躍した武将・上杉謙信がとった行動に関係しています。

上杉謙信というと武田信玄とライバル関係にあったことはよく知られていますよね。しかし、信玄が領内の塩が不足して困っていたとき、謙信はそんな信玄にあえて塩を送り届けて助けてあげたんだとか。

こうしたエピソードから「敵に塩を送る」のことばが生まれたのだそうです。

もう少し詳しく説明しましょう。

由来は義の武将上杉謙信

川中島

当時の状況

ときは戦国。

各地の領主が領土への野心を燃やし、あちこちで戦いを繰り広げていた群雄割拠の時代。

ただ、一応補足しておきますが戦国時代だからといって、まわりの国すべてを敵に回して戦っていたわけではありません。ときには同盟、ときには敵対、そのときの状況に応じてこっちと組んだり、あっちと組んだりを繰り返すのが普通でした。

当時の武田信玄は信濃への進出にあたり、その背後となる駿河の今川家と関東の北条家と同盟を結んでいたのです。

塩を止めた今川氏真と塩を送った上杉謙信

しかし、これまで同盟関係としてうまくやってきていた今川家との間に変化が生じます。その変化とは、おもに次のものです。

  • 実質的当主であった今川義元が織田信長によって討ち取られ、今川家の力が衰えた
  • 武田家の信濃平定から時間が経過し、統治が安定してきた

つまり、武田家にとって今川家がさほど重要でなくなったということ、それどころか攻略対象にすらなってしまったということです。

信玄は、自身の嫡男であった武田義信を廃嫡します。義信は今川家当主・今川氏真の妹を正室として迎え、同盟の象徴でもあったのです。さらに義元を討ち取った織田信長や、今川家を離脱した徳川家康に武田家が近づきました。

これは今川家に敵対する行為で、当然、氏真は怒り心頭といったところでしょう。

そこで氏真が武田家に対してとった行動が、塩の流通の停止だったという訳です。

塩というと、何でもある現代においてその重要度はなかなか理解できません。ただ、当時としては調味料はもちろん、食料の保存などにも利用され、人が生きていくうえで欠かせない大事な物資でした。

その当時の武田家の領国は甲斐と信濃。海を持たなかったため領国内の塩は、外からの輸入に頼っていました。

それを分かったうえで氏真は関東の北条家と示し合わせて、武田領への塩を停止します。これにより武田領国の人が困窮する事態におちいったのです。

このとき、氏真は武田家のもう一方の隣国である越後の上杉謙信にも、当然塩の停止を要請しました。

しかし、謙信はこのやり方に賛同せず、卑怯であるとして武田領へ塩を送ったということです。

謙信はこのとき「武力をもって戦うのであって、塩などで戦うのではない」といって突っぱねたともいわれています。なんとも謙信らしい男気のある言葉ですね。

史実ではない!?

古書
と、ここまでカッコイイ謙信のおはなしをしました。しかし、この信玄に塩を送るエピソード、実は江戸時代の創作といわれているのをご存じでしょうか。

このおはなしが登場する最も古い書物とされている『謙信公御年譜』が書かれたのは、江戸時代ももう半ばに差し掛かったころのこと。塩を送ったとされる時期から、実に100年以上もたったあとのはなしです。

しかもこの書物は物語要素が強く、信ぴょう性は低いといわれています。

今分かっているのは、史実としてはなにも確認されていないということ。あったとも、なかったともいえないというのが現状なんです。

もし、武田領に塩を送った事実があったとしても、それは単にビジネスチャンスをものにしただけではないかとも考えられています。

ちょっとした出来事が、謙信の義のイメージに結び付けられ、美談として語られるようになっていったというのが本当のところかもしれません。

まとめ

ビックリマーク
日本には数多くの故事・ことわざがあります。

中には間違った意味として使われているものもあって、「敵に塩を送る」もそうしたことわざのひとつでしょう。

塩のことわざというと「傷口に塩を塗る」ということばが思い出されます。また、不快な人物の訪問に対して「塩まいとけ!」みたいな使われ方もするので、ついネガティブなイメージを思い浮かべてしまいますよね。

確かに「敵に塩を送る」とだけ聞けば、何かのいやがらせ?と思うのが自然のような気もします。でも、こうしてもとになったエピソードを知れば、「なるほど!」と納得がいくのではないでしょうか。

]]>
250
【豊臣秀吉天下統一までの道のり】本能寺の変からの流れを総まとめ https://kaisetsu.info/213/ Sun, 31 Jan 2021 04:02:01 +0000 https://kaisetsu.info/?p=213 天正10年6月
京都本能寺

天下を治めていた織田信長が家臣であった明智光秀の謀反によって突然この世を去ってしまいます。

しかし、「信長様のかたき討ちだー!」とばかりにやってきた、後の豊臣秀吉である羽柴秀吉によって今度は光秀が敗死。その後秀吉は天下を取って天下統一を果たすというのは誰もが知っているストーリーです。

ですが、秀吉がすんなり天下統一を果たしたかというとそうではありません。秀吉が天下統一を果たしたのは天正18年、「本能寺の変」が起こった天正10年から数えて、実に8年という相当な年月がかかっていることからも分かります。

豊臣秀吉が天下統一を果たすまでの道のり

秀吉の兜
それでは秀吉が天下統一を果たすまでどのような流れを辿ったのか、大まかな出来事にしぼって簡単に説明しましょう。

本能寺の変 天正10年6月2日(1582年6月21日)

明智光秀によって織田信長・信忠親子が敗死します。これにより織田政権のトップが不在となり、この後の秀吉の人生が大きく変わりました。この事件がなければ、秀吉の天下がなかったのは間違いないでしょう。

事件当日、秀吉は200キロも離れた備中高松城で毛利氏と対陣中、ただ事件の報せは次の日の夜には届いたといわれます。

この報せを聞いた秀吉側近の黒田官兵衛は

「今こそ天下を獲るときですぞ!」ニヤリ

と秀吉に進言したなんて話もあります。

本能寺跡

山崎の戦い 天正10年6月13日(1582年7月2日)

報せを聞いた秀吉の決断は早く、毛利氏とさっさと講和を果たして光秀のもとへと急行します。いわゆる中国大返しです。これによってわずか10日ばかりで京都の西にある山崎において光秀と戦いました。

このとき秀吉は周辺領主に「信長様は生きている!」と嘘の手紙をばらまいて、多くの味方を付けることに成功したといいます。一方の光秀は謀反という暴挙にまったく仲間が得られず、数で圧倒されてあっという間に蹴散らされました。
山崎合戦之地

清須会議 天正10年6月27日(1582年7月16日)

信長・信忠がいなくなった後の織田家をどうしていくか、柴田勝家や丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興ら織田家重臣が集まって話し合った会議です。

その結果、秀吉は「山崎の戦い」の戦功によって丹波、山城、河内など、大幅な加増を受けて一気に家臣団トップへと躍り出ました。

また、織田家の家督は信忠の子の三法師とすることがこの会議で決まっています。よく秀吉が三法師を抱きかかえて家臣団の前に現れるといった話がありますが、これは後の創作です。

信長の葬儀 天正10年10月15日(1582年11月10日)

秀吉は養子となった信長の四男・秀勝を喪主として、信長の葬儀を執り行います。これによって織田家の実力者は秀吉であることを、織田家中と世間に向けてアピールしたのです。

しかし、織田家のトップだった柴田勝家は面白くありません。当然ながら勝家は欠席、この行動によって秀吉と勝家の関係は決定的となってしまいました。

賤ヶ岳の戦い 天正11年4月(1583年6月)

勝家と秀吉がついに琵琶湖北側の賤ヶ岳(しずがたけ)付近において激突します。この戦いで勝家は敗走、本拠の北ノ庄に戻り正妻・お市の方とともに自害しました。

この戦いで反秀吉勢力は一掃されます。旧織田家中は秀吉のもとひとつにまとまり、実質的な天下人となったのです。

この時点で、すでに秀吉の勢力は他者を圧倒しており、もはや秀吉に単独で対抗しうる勢力はありません。これ以降の戦いは数で圧倒する戦いとなるので、これこそがまさに秀吉にとっての「天下分け目の戦い」であったといえるでしょう。

小牧・長久手の戦い 天正12年3月~11月(1584年4月~12月)

「秀吉の下風になど立てるか!」との思いでしょう、信長の子で織田家当主となっていた織田信雄と徳川家康が連合を組んで秀吉と戦いました。

しかし、力の差は歴然で最終的に織田領の割譲と、家康の子(後の結城秀康)を人質に入れることで講和しています。

紀州征伐 天正13年3月~4月(1585年4月~5月)

紀州の雑賀衆や根来寺など宗教勢力との戦闘です。一説には10万ともいわれる大軍を動員し、圧倒的な力で制圧しました。

四国征伐 天正13年6月~7月(1585年7月~8月)

四国の覇者となった長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)との戦闘です。秀吉の弟・秀長を大将にこちらも10万ほどの兵が動員され、そんなものに元親が対抗できるはずもなく、あえなく降伏します。

その後、土佐国以外の領地はすべて取り上げられました。

関白就任 天正13年7月11日(1585年8月6日)

秀吉は自身の権威を上げるため、朝廷の実質的トップである関白の就任を画策します。

しかし、関白職は通常、藤原氏の中でも五摂家と呼ばれるごく限られた家のものでなければ就任することができません。そこで、秀吉は元関白の近衛前久の猶子となることで、関白就任を実現させています。

ちなみに、秀吉が将軍になるために足利義昭に養子にするように頼んで断られたという話がよく聞かれますが、これは事実ではないといわれています。

九州征伐 天正14年7月~15年4月(1586年8月~1587年5月)

薩摩の島津氏との戦闘で、「島津征伐」とも呼ばれます。この頃の島津氏は、龍造寺氏や大友氏など有力大名を下し、九州全域制覇は目前といった状況にありました。

秀吉は島津氏に対して停戦命令を出しますが、島津氏がこれを無視したため九州征伐を決断します。

20万という大兵力を前に、武勇名高いさすがの島津氏も降伏。その結果、領国は薩摩と大隅、日向の一部とし、それ以外は秀吉配下の武将に戦いの恩賞として与えられました。

豊臣姓下賜 天正14年9月9日(1586年10月21日)

秀吉は新たな姓を望んで、正親町天皇(おおぎまちてんのう)から豊臣姓を賜りました。これによって、これまで関白職を独占していた藤原氏とは違う、新たな武家関白家が誕生します。

この後、これまでの征夷大将軍と同等の「武家の棟梁」としての意味合いで、豊臣家が関白職を継承していくこととなりました。ただし、豊臣政権は短命だったため、秀吉・秀次の2代で終わっています。

徳川家康が臣従 天正14年10月27日(1586年12月7日)

「小牧・長久手の戦い」以来、再三に渡る上洛要請をかわし続けた徳川家康が、大阪城にやってきて居並ぶ大名たちの前で秀吉に臣従を誓います。

このとき秀吉は、妹の朝日姫を家康の正室として家康のもとへと送り、さらには母の大政所まで人質に送るなどしており、家康にかなり気を使っているのがうかがえます。

家康しかみ像

太政大臣就任 天正14年12月25日(1587年2月2日)

後陽成天皇の即位にあわせて、秀吉が太政大臣に就任します。

武家の太政大臣就任は平安時代末期の平清盛、室町時代の足利義満に次ぐ3人目となり、秀吉はこの太政大臣を頂点とした政権システムを構想していたという話もあります。

聚楽第行幸 天正16年4月14日(1588年5月9日)

秀吉が後陽成天皇を自邸の聚楽第に招いて贅沢にもてなしました。

聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)とは、関白となった秀吉が執務を行うため京都に建てた屋敷です。自身の邸宅へ天皇を招くことで豊臣家の権威をより一層アピールし、天下の主であることを内外へ知らしめたといえます。

小田原征伐 天正18年2月~7月(1590年3月~8月)

関東の北条氏との戦闘で、北条征伐とも呼ばれます。

北条氏は表面上は豊臣政権に臣従の姿勢を見せてはいましたが、当主の北条氏政・氏直父子が上洛に応じていませんでした。さらに北条氏が真田領へ侵攻したことで、秀吉はとうとう小田原征伐を決断します。

およそ20万の兵が動員され、支城が次々と落とされていきました。北条氏の本拠である小田原城では大きな戦闘はありませんでしたが、北条氏は3ヶ月の籠城の末に開城、大名としての北条氏はここに滅亡しました。

奥州仕置 天正18年7月~8月(1590年8月~9月)

北条氏の降伏後に行われたのが、奥州の大名たちへの処分です。

秀吉は小田原征伐の際、奥州の大名たちに小田原参陣を促しました。そして、参陣しなかった大名は取り潰し、遅参した伊達政宗などは大幅な減封を受けるなど厳しい処分が下っています。

このとき、小田原に集まっていた兵の一部が北上、一部抵抗を受けながらも奥州の諸城を制圧し、ここにようやく秀吉の天下統一がなされたのです。

まとめ

大阪城
いかがだったでしょうか?

「本能寺の変」が起こって、後はトントン拍子で天下人!みたいな印象もありますが、結構濃密だったと思いませんか?

いや、むしろ働きすぎなくらいですよ!

戦国時代のクライマックスというと「本能寺の変」「関ケ原の戦い」「大坂の陣」といったところですからね。どの作品でもそのあたりを中心に描かれるのは仕方がないのでしょう。

その間の出来事はどうしても埋もれてしまって印象に残らないのかもしれませんね。

]]>
213
古墳とは何か?分かりやすく簡単に解説します! https://kaisetsu.info/180/ Mon, 18 Jan 2021 09:31:07 +0000 https://kaisetsu.info/?p=180 古墳を知らない人はいないと思います。

ですが古墳とは何かと聞かれて正確に答えられる人はほとんどいないのではないでしょうか?

古墳とは、広い意味では「古いお墓」のことを指します。そして狭い意味では「3世紀から7世紀にかけて造られた墳墓」のことを指し、一般的にはこちらの意味で使われます。

ここの「墳墓」とは「土を盛ったお墓」という意味です。特にこの3世紀から7世紀にかけては、大王や貴族、地方豪族など、当時の権力者たちのお墓としてまるで競うように造られました。

この古墳が盛んに造られた古墳全盛時代のことを古墳時代と呼びます。

古墳の始まりと終わり

石室
古墳の登場は3世紀、といってもそれ以前に墳墓がなかったというわけではありません。それ以前、つまり弥生時代以前にも土を盛ったお墓は存在しています。このお墓は「墳丘墓(ふんきゅうぼ)」と呼ばれます。

また、逆に古墳が終焉を迎えた7世紀以降、つまり奈良時代以降にも土を盛ったお墓が存在しています。このお墓は「墳墓(ふんぼ)」、あるいは造られた時代によって「中世墳墓」や「近世墳墓」などと呼ばれます。

では、これらのお墓と古墳との違いは何だと思いますか?

答えは

「造られた時期が違う」

ただそれだけです。

墳墓が古墳と呼ばれるようになる3世紀中ごろは、奈良を中心にヤマト王権が誕生した時代です。また、古い中国の書物「魏志倭人伝」に出てくる邪馬台国もこの時代にあたります。

そのころに登場したのが前方後円墳で、これ以降に造られた墳墓は古墳と呼ばれます。

このあと古墳は次第に大型化し、数百年に渡って古墳全盛の時代となりました。ただ、ピークは5世紀ごろでその後は少しづつ衰退を始めます。そして7世紀終わりにはほぼ造られなくなり、古墳造りは終焉を迎えることとなるのです。

7世紀終わりというとあまりピンとこないと思いますので、奈良時代が始まる少し前、天武天皇・持統天皇の時代あたりといった方が分かりやすいかもしれません。

古墳の形いろいろ

履中天皇陵空撮
古墳は今現在、北海道から沖縄に至る全国で16万基以上確認されています。全国のコンビニ総数が約5万8千店舗、郵便局の総数が約2万4千局であるということを考えると、いかに古墳の数が多いか分かると思います。

これだけたくさんある古墳ですから、時代や地域、被葬者の地位などの違いによってその形状は様々です。ここでは古墳の形状について、いくつかご紹介しましょう。

前方後円墳

特徴的な鍵穴の形をした古墳です。みなさんが古墳と聞いて真っ先にイメージする形状でしょう。

最近、世界遺産に登録された大仙陵古墳(いわゆる仁徳天皇陵)をはじめ、巨大な古墳はみな前方後円墳であるため、最も格式の高い形状とされています。

この形状は日本独自に発展していったといわれ、大和政権の広がりとともに全国に伝播していきました。海を越えた先の朝鮮半島にも、いくつか存在が確認されています。

円墳

丸く土を盛り上げた単純な形状の古墳です。規模は中型や小型のものが多く、古墳のほとんどはこの円墳です。

方墳

四角い形状の古墳です。出雲を中心とした中国地方に多く見られる形状です。

八角墳

文字通り八角形の形をした古墳です。八角形の意味は不明ですが、古代中国の思想を反映したものとされています。

前方後円墳が造られなくなった7世紀には、大王墓として使用されていることから、こちらも格の高い形状であるとされています。

まとめ

埴輪
世界最大級のお墓である大阪の大仙陵古墳が世界遺産登録されたとき、大いに盛り上がっていたのを覚えています。そんなこともあってか、最近は古墳ブームであるということをよく耳にします。

確かに昔の人が人力であれだけ巨大なものを作ったというのは、ものすごいことですよね。

しかも、1000年以上経った現代人の我々の目の前にそれがあると考えると、なんだかワクワクしてしまう気持ちも分かる気がします。

]]>
180
【女子袴の歴史】簡単に解説! https://kaisetsu.info/127/ Mon, 11 Jan 2021 12:34:32 +0000 https://kaisetsu.info/?p=127 袴(はかま)というと、卒業式を迎えた女の子たちの姿を思い浮かべる人が多いでしょう。特に最近では、和装を見かけること自体少なくなってきているので、一層目を引きますよね。

この春の風物詩ともなっている袴ですが、今見られるような女性の袴スタイルが確立したのは、明治・大正の時代。女子学生たちの間で広く取り入れられました。

しかし、実は袴の歴史はとても古く、今から2000年近くも遡ることができます。

それでは袴の歴史についてもう少し詳しく解説しましょう。

袴の歴史

十二単

袴とは?

袴とは下半身を覆うための衣服のことで、日本の伝統的な着衣のひとつです。

腰に巻くだけの股のないものは「裳(も)」と呼ばれ、股のあるものは「袴」と呼ばれます。裳を穿(は)くように発展していったことから、「はくも」となり、それがやがて「はかま」に転じていったとされています。

袴の歴史

袴の最も古い記録は、古墳時代(3世紀ー7世紀)のものです。遺跡の発掘によって、袴の原型とみられる衣服を身に着けた人型ハニワが見つかっており、袴の存在が確認できます。

平安時代には宮廷の女性たちが下着として着用し、それがやがて表着として着られるようになりました。

しかし鎌倉時代以降になると、それまで下着として着られていた小袖が、袴を省略して表着として着られるようになります。袴の出番は次第に減っていき、さらに江戸時代には宮廷女性を除いた女性たちに対して袴の着用が禁止されてしまいます。

こうして、庶民の間からは完全に袴が姿を消してしまいました。

この状況に転機が訪れたのは明治になってからです。

明治になると西洋の文明や文化が日本に押し寄せ、女性の社会進出が一気に進みます。こうした女性たちは動きやすさから、袴をはくようになっていきました。

そしてもうひとつは教育現場です。明治の初めには女子教育の場として女学校が次々と立てられていきました。しかし、ここでひとつ問題が起こります。

学校には西洋式の机と椅子が置かれ、女子生徒たちは椅子に座って授業を受けるようになったのですが、着物だと裾や帯が乱れてしまうのです。そこで考え出されたのが袴の着用だったというわけです。

その後、「女性が袴とは何事だ!」との声もあり一時期は禁止されたり、洋装へ変わっていくなどしましたが、国粋主義の流れで再び回帰し、女子学生の定番となっていったのです。

現在みられる女子袴は、華族女学校の教授に迎えられた下田歌子が、宮廷で使われていた袿袴(けいこ)をもとにして作ったといわれています。股のないロングスカートのような行灯(あんどん)袴は、トイレの便などもよく実用性に優れていたため、全国へと広がっていきました。

しかしそれも長くは続かず、大正から昭和にかけて次第に洋装にとって代わり、ほとんど姿を消してしまいました。

卒業式に袴を着るようになったのなぜ?

卒業式
現代人にとってみれば、卒業式と言ったら袴だし、袴と言ったら卒業式というぐらい卒業式に袴を着るのは当たり前のものとなっています。

ただ、実をいうとその歴史は浅く、卒業式の袴姿が定着したのは90年代以降なんです。

きっかけとなったのは、大和和紀さんの原作漫画『はいからさんが通る』です。

アニメ化もされ、1987年には南野陽子さん主演の実写映画が公開されます。映画は大ヒットを記録し、当時アイドルだった南野さんの袴姿はとても話題となりました。

そんなとき、ある大学の卒業生が袴姿で卒業式に出席したそうです。この姿が在校生たちにウケたのでしょう。翌年には一気に数百人に膨れ上がり、瞬く間に全国へと広がっていったといわれています。

まとめ

巫女さん
最近では小学生の卒業式にも袴姿が流行っているそうで、こちらのきっかけは末次由紀さんの原作漫画『ちはやふる』と言われています。

競技かるたに青春をかける主人公の袴姿に思わず「これ着たい!」となったのだとか。

ただ、さすがに小学生にそこまでお金をかけて袴姿とはいかがなものかという意見もあって、賛否が分かれているそうです。

袴姿はもっと大きくなってから、小学生には小学生らしい格好があるのではと思ってしまいますが、もしかするとこうした考えはもう古いのかもしれませんね。

]]>
127
明智光秀はなぜ裏切った?本能寺の変の理由と有力黒幕説を簡単に解説 https://kaisetsu.info/90/ Sat, 02 Jan 2021 06:51:51 +0000 https://kaisetsu.info/?p=90 天正10年6月2日早朝、京都本能寺において「本能寺の変」が勃発。

この日、天下統一に最も近かった有力大名・織田信長が、家臣であった明智光秀の襲撃を受けて命を落としました。この事件をきっかけに、歴史は大きな転換点を迎えることとなります。間違いなく史上最大のクーデターのひとつといえるでしょう。

ただ、この事件のあと光秀はわずか10日ばかりという短い期間でこの世を去ってしまいます。このことで、光秀が謀反を起こした理由については、大きな謎として残ってしまいました。

この劇的な出来事は、多くの物語や研究者たちにこの後数百年に渡って取り上げられるようになります。光秀はなぜ信長を裏切ったのか黒幕はいたのかそれは一体誰なのか、などについてさまざまな説が唱えられ、もっともらしい説からとんでも説まで今では50以上もあるそうです。

ではその理由とは何だったのか?

結論からいえば不明です。ただ、最近よくいわれている有力な説のひとつとして、四国征伐阻止説があります

このあと、ほかの説なども合わせて、もう少し詳しく解説しましょう。

なぜ光秀は裏切ったのか

明智桔梗
光秀が事件を起こした理由として、いま有力と思われる説、よくいわれている説をご紹介しましょう。

最近のトレンド!四国征伐阻止説

最近、四国の覇者となった長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)と光秀の家臣・斎藤利三(さいとう・としみつ)の間でやり取りされた書状が見つかりました。これによって織田との関係や、前後の状況などに光が当たり、そこから注目を浴びるようになった説です。

その話とは大体こうです。

織田信長の機内への進出以降、信長は四方に敵を抱えることとなります。このうちのひとつが四国を本拠とする三好勢です。

そして、この三好に対抗するため信長が手を結んだのが長宗我部元親でした。当初、信長は元親に対して「四国は切り取り次第」との許しを与えていました。ところが、情勢が落ち着いてくると、「やっぱり領地はやらん」と信長が言い出したことで、関係が悪化します。

このとき両者の間に入って奔走していたのが光秀や利三で、面目を失ったのが謀反を起こした理由とされています。

実際、「本能寺の変」が起こったのは四国征伐軍が四国に渡ろうとするまさに当日であり、それなりの信ぴょう性はありそうです。

よくいわれる怨恨・私怨説

要するに「コノヤロー!」という怒りに任せてやっちゃったという説です。これまで広くいわれていた説で、ドラマや小説などでも数多く採用され広く浸透しているので、今でも一定の支持を得ています。

そのきっかけになったといわれている信長と光秀のエピソードがいくつかあるので紹介しましょう。

  • 甲州征伐を終えた後に光秀が「苦労した甲斐があった」といって、それを聞いた信長は「お前が何をしたというのか!」と激怒、光秀の頭を打ち付けた。
  • 同盟者の徳川家康を接待する饗応役を仰せつかっていたのに突然解任されたため、腹立ちまぎれに肴や器を安土の町の堀に投げ棄てた。
  • 光秀の領地である丹波と近江を突然召上げられ、毛利の領地である山陰を与えるといわれた。
  • 怒った信長に頭をはたかれてカツラがとれ、みんなの前で大恥をかいた。

割と有名なエピソードなのでみなさんもご存じだと思います。今なら完全なブラック認定で間違いなくアウトでしょうが、当時はこうゆうこともあったのかもしれません。

ただ、これらのエピソードは江戸時代頃に書かれたものとされていて、どれも信ぴょう性は薄いとされています

ほかにもあるこんな説

織田信長
四国征伐阻止説、怨恨説のほかにもたくさんの説がありますが、よくいわれている説をご紹介します。

野望説

「いま信長を討ったら天下人になれるかも…」と単純に光秀が天下人になりたくてやったという説です。

不安説

それまで信長に尽くしてきた家老たちが、いとも簡単に織田家を追い出される姿を見た光秀が、「もしかして俺もやばいかも…」と不安に駆られてやったという説です。

神格化阻止説

信長が「おれが神だ!おれをあが(崇)めろ!」などといい出したので、「コイツほっとくとやばいかも…」と光秀が思ってやったという説です。

暴君討伐説

比叡山焼き討ちしたり、石山合戦などで女子供もお構いなしに殺していく姿を見て、「コイツに天下を取らせてはいけない」と感じてやったという説です。

朝廷守護説

信長が天皇を排除しようと考えていたとされ、光秀が「そんなことは許されない!」という思いからやったという説です。

黒幕説 黒幕は誰なのか?

密談
ここまでよくいわれている説をいくつかご紹介しましたが、どれも光秀が自発的に事件を起こしたことが前提となっています。

ここでもうひとつ、よくいわれている説の中に黒幕説があります。これは、光秀はあくまでその人物の意を受けて実行しただけで、主犯ではない(あるいは共犯)とする説です

こちらもこれまでの説同様、確たる証拠はありません。関係者ほぼすべて容疑者といった状態ですが、なかでも黒幕としてよくあげられている人物をご紹介しましょう。

羽柴秀吉

豊臣秀吉
この事件ののち、光秀を討って天下人にまで上り詰めた人物です。事件によって最大の利益を得たものとして黒幕の筆頭としてよくあげられています。

特に事件直後、対陣していた毛利氏と手打ちしてすぐに光秀討伐に向かったことが知られています。このあまりに早過ぎる対応が、事件が起こることを事前に知っていたのではないかとの疑惑を深める根拠となっているのでしょう。

【豊臣秀吉天下統一までの道のり】本能寺の変からの流れを総まとめ
天正10年6月 京都本能寺 天下を治めていた織田信長が家臣であった明智光秀の謀反によって突然この世を去ってしまいます。 しかし、「信長様のかたき討ちだー!」とばかりにやってきた、後の豊臣秀吉である羽柴...

徳川家康

徳川家康
我が子・信康が信長によって切腹に追い込まれて恨みに思っていた、あるいは今後の徳川の扱いなどについて不安に思っていたとする説です。

ただ、事件発生時にはわずかな供のみで三河より遠く離れた堺におり、その後の伊賀越えで命を落としかけていることなどから、可能性はほとんどないでしょう。

足利義昭

足利氏二引両
以前、信長と敵対して京を追放された室町幕府の最後の将軍です。信長に対する恨みもさぞ深かったと思われ、追放後は鞆幕府を作って信長に対抗しています。

光秀がもと義昭の家臣だったことも、この説の根拠のひとつとなっています。

朝廷

菊花紋章
正倉院に収蔵されている宝物である蘭奢待(らんじゃたい)を切り取ったり、京都で馬揃えをして示威行動をしてみたりといった、要するに信長の行動が目に余ったのでといった話です。

それと、事件の起こる少し前、信長を朝廷より太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任官するという話が持ち上がります。ただ、どちらサイドから持ち上がった話なのか、回答はどうだったのかなど謎のままです。

これは三職推任問題と呼ばれており、この出来事があった直後、「本能寺の変」が起こって信長が亡くなりました。もしかすると、この問題が引き金になったのではないかともいわれています。

まとめ

武将
「本能寺の変」は日本人であれば、だれでも知っている大事件です。

ここまで人々を惹きつける要因とは何なのでしょうか?

最高の実力者が暗殺されたこと、遺体が発見されなかったこと、謀反を起こした光秀があっさりとやられてしまったこと、政権が移ってしまったことなどいろいろとあると思います。

しかし、なかでも最大の要因となっているのは、謀反を起こした理由が不明のままということではないでしょうか。

きっとこの先、どのような新資料が見つかったとしても、決着がつくことはないでしょう。もしかすると100年後の世界でも「本能寺の変」特集なんてのをやっているのかもしれませんね。

「本能寺の変」について興味のある方はこちらの本もどうぞ。

]]>
90
平安時代とはいつからいつまで?始まりと終わりを簡単解説 https://kaisetsu.info/23/ Mon, 07 Dec 2020 05:34:07 +0000 https://kaisetsu.info/?p=23 平安時代とは、延暦13年(794年)から文治元年(1185年)までの392年間を指す時代区分です。

この時代で思い浮かぶものはと聞かれたら、まっさきに藤原氏をあげる方が多いのではないかと思います。確かに平安時代は藤原氏全盛の時代でした。ただ400年も続いた時代はそう単純ではありません。

では、平安時代がいつどのようにはじまり、いつどのようにして終わったのか、そしてどのような時代であったのかについて簡単に解説します。

平安時代のはじまりと終わり

和傘

いつはじまった?

平安時代は時の天皇である桓武天皇(かんむてんのう)が、平安京(現在の京都府京都市)に都を遷(うつ)した時をもってはじまります。

延暦13年10月22日(794年11月22日)、いまから約1200年も前のことです。

それ以前の時代は奈良時代と呼ばれます。こういうと多くの人は奈良の平城京から平安京へ都を遷したのだなと思うかもしれませんが、実は平城京と平安京の間には都をひとつ挟んでいます。

あまり知られていませんが平安京に遷る以前は平安京から10Kmほどの場所にあった長岡京(京都府向日町市/長岡京市)を都としていました。

ただし、長岡京が都となっていたのは延暦3年(784年)から平安京に遷るまでのたった10年ほど。期間があまりに短く、天皇も桓武天皇1代限りということで長岡時代とはならなかったのでしょう。

人によっては長岡京遷都(784年)を平安時代の始まりとする場合もあるようですが、ほとんどの場合は794年の平安京遷都を平安時代の始まりとしています。

いつ終わった?

次に平安時代の終わりですが、現在においては文治元年(1185年)とされています。

「現在においては…」というとなんかスッキリとしませんが、これは意見が分かれているということです。

「平安時代の終わり」とは、次代である鎌倉時代がはじまるところと言い換えることができます。ただ、この「鎌倉時代のはじまり」にいくつかの説があって揺れているのです。

いわれている説にはだいたい次のようのものがあります。

【1】1183年 関東の支配権獲得(源頼朝)
【2】1185年 守護・地頭の設置(源頼朝)
【3】1192年 源頼朝の征夷大将軍就任(源頼朝)
【4】1221年 「承久の乱」後の支配権獲得(北条義時・北条政子)

これらのどこを「鎌倉時代のはじまり」とするのかによって「平安時代の終わり」も変化するのです。

以前であれば

いいくに作ろう鎌倉幕府

などといわれ、【3】の1192年の頼朝の将軍就任を鎌倉幕府のはじまりとしていました。ただ、最近では守護・地頭を設置しているのだから幕府の支配はこの時点で始まっているとみなされて、【2】の1185年を鎌倉幕府のはじまりとするようになったようです。

平安時代とはどんな時代?

貴船神社
では、平安時代とはどんな時代でしょうか。

とはいってもおおよそ400年にも渡った長い時代ですので、最初から最後までこうでしたと言いきることはなかなかできません。

平安時代を語る場合には、その政治体制からだいたい前期、中期、後期の3つの時期に分類されることが多いです。

平安時代前期

前期と呼ばれる時代は、天皇家が直接統治をおこなういわゆる親政の時代です。

天皇を中心に皇族や皇族出身の貴族が政治の重要なポストを占め、天皇家がしっかりと権力を握っていました。この状態は遷都を行った桓武天皇の時代から、おおむね60年ほど続きます。

平安時代中期

そして続く中期になって政治権力を握ったのが、藤原氏です。

藤原氏は天皇家に一族の娘を嫁がせ、生まれた皇子を次々に天皇に即位させます。そして自身は摂政や関白に就き天皇の外戚として権力を振るいました。

これは摂関政治と呼ばれ、おおよそ200年という長い期間続きます。

かの藤原道長が

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」

と藤原氏の栄華を歌に詠んだのもこの時期にあたります。

平安時代後期

後期になると藤原氏は次第に力を弱めます。そして再び天皇家が実権を持ち始めました。

藤原氏の影響力が低かった白河天皇は自身の皇子である堀河天皇に譲位し、上皇の立場から政治を行い始めます。この政治体制は院政と呼ばれ、このあとも鳥羽天皇、後白河天皇に引き継がれ約100年に渡って続きました。

そして平安時代末期になると、平清盛や源頼朝などの武士が台頭し、頼朝が鎌倉に幕府を開いて長い長い平安時代がようやく終わりを迎えるのです。

まとめ

平等院鳳凰堂
平安時代のもとになっている平安京とは、「平(たい)らかで安(やす)らかな京(みやこ)」の思いが込められているといいます。

実際はどうだったかというと、皇族は皇位を巡って皇族同士で争いが行われていました。藤原氏も他氏族を追い落としたり、一族間で争ったりしていました。また、地方は地方であちこちで乱が起こるなどしています。

一言でいうと平安時代とは、平安という言葉とは全くかけ離れていた時代だったといえるでしょう。だからこそ逆にそうした願いが込められたのかもしれませんね。

]]>
23